中国文学 聊斎志異「黄栄」の内容・あらすじを解説 「オタク」の肯定

この記事は約4分で読めます。

中国文学「聊斎志異」について考察する。

 

『黄英』は、「マニア」に排他的な俗世という背景のもと、俗世への不満、マニアの肯定、そして異界へのあこがれを表現した作品である。

馬子才は無類の菊好きである。よい菊があると聞けば、千里離れていようと必ず買ってくるほどの入れ込みようである。また、面目を重んじ、俗を厭い高尚であろうとする傾向がある。作中で詳しく描かれているわけではないが、この二点には関連を見出すことができる。一つのものに強い執着を持つ愛好者(マニア)は世間から外れたものであり、しばしば白い目を向けられる。俗世からそのような扱いを受けたマニアは、自らも俗世から離れようとするのである。

馬が出会う姉弟は俗世の人間ではなく、異界の菊の精である。彼らは、人間が良い芽を買い求めるのに対し、種が何であっても育て方次第で珍しい菊を作ることができる。人に見られていると人間の姿に戻れなくなるという、人間界とは違う規則に従っている。また、未来を予知する能力を持つ。このように様々な点で姉弟が異界のものであることが伝えられている。そして、馬はそれを好ましく思っている。マニアが好意的を抱くのは俗世の外、異界のものなのである。

妻の死後、馬は黄英と結婚することになるが、彼は陶が出かけていく前の時期に、「黄英は四十三ヶ月後に結婚する」という話を聞く。四十三ヶ月後というのは、馬の妻が死んでからという意味である。陶はこの時点ですでに姉の夫として馬を見繕っていたことがわかる。馬と陶は言い争いをしており、交流も薄くなっていたときだった。それにも関わらず陶が馬を選んだ理由は、黄英が菊の精であり、馬が菊の愛好者だったからと考えられる。これは、一つのものを愛し続けた結果、それそのものと結ばれるという、マニアが報われる構造であり、マニアの肯定である。

しかし、ことは簡単には成らない。上述の通り馬は高尚であろうとする拘りを持っている。馬は貧を尊び、富を嫌い、菊を売ることは菊への侮辱だと考えていた。そして菊を売って生計を立てる姉弟を軽蔑していた。姉弟が菊を売るのは、出世できないと嘲られている陶淵明の名誉を回復するためであり、俗でないどころかむしろ俗に対抗するものである。富を求めるのは清ではないにしろ強いて貧を求めたからといってそれも清ではないこと、菊を金に変えることがその芸術性を損なうものではないことを馬はなかなか認めなかった。

それでも姉弟が馬を見捨てることはない。姉弟は、馬が頑なになっているだけであり、心の底からそう信じているわけではないことを理解していたと考えられる。黄英は結婚後、自分の家の高価な品物を貧乏な馬の家に持ち込み、馬の面目を潰す。そして不平を漏らす馬に対し、馬がそのような考えなら、と別居を提案する。馬は黄英のもとへ通うようになる。そのとき馬は自らの高尚が虚勢であること、本気で貧を望んでいるのではないことを知ったのである。そして、馬と黄英はわだかまりのない夫婦となる。

『黄英』はマニアを救済する物語である。能動的に動くのは姉弟の側であり、異界の精がマニアに接触し、俗世でついた淀みを取り払って一緒になる過程が描かれている。

終盤では陶が酒に呑まれて死ぬという展開があるが、これはテーマの再提示であると考えられる。酒呑みの陶は、ある日潰れて本性を現しても飲むのをやめないどころか、ますますひどくなる有様である。そして最後には死んでしまう。飲み仲間の曽も同様である。異史氏曰くというフレーズで書き出す評論部分では、酔いつぶれて死ぬことは、世間から見れば残念なことだが、本人にとっては本望である、としている。やはりここでもマニアの姿を肯定的に描いているのである。

『黄英』には太宰による翻案『清貧譚』があるが、変更されている点のうち重要なのは、別居を提案するのが馬であること、酒についての話が単純化されていることの二点であろう。別居につながる言い争いの場面では、黄英がどうすればいいのかと発言している。オリジナル版では、別居を通して馬のプライドを崩そうという意図が読み取れた。また陶が死ぬ場面において陶は、役目を果たしたので人間界から去ってもいい、と話しており、酒への熱烈な愛好があまり感じられなくなっている。太宰版はオリジナル版のテーマを保持してはいないと言える。

タイトルとURLをコピーしました