欲望に流されるのは構わないがそれで本当の望みを見失うのは不幸だ

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関連項目:ネサフ

突発的・刹那的な欲望に流されるは、それはそれで全然構わないんだけど、
(構わないというのは私は基本価値判断をしないからです)
(欲望というのは人を喜ばせたい、正義を果したいというのも含みます。純粋に「したいこと」という意味)
そのせいで他の欲望を意識できないままでいるのは少し危ういよね

欲望にも客観的な優先順位がある
それを主観的に認識できるかできないかは別の話
まあ客観的といっても机上論であって他の人がある人の欲望の優先順位を知ることはきっと無理だ
本人がはっきりと理解してそれを人に言えば分かるかもしれんが
どっちにせよ主観的にわからない状況ではだめだ

なんだか分かりにくいのでもう少しちゃんと話す
説明が独りよがりになるのは悪い癖だ。受験生時代あれだけ二次試験の現代文で記述をやったのに。閑話休題。
欲望の優先順位と言ったのは、それを叶えたことで生まれる効用にもそれぞれ大きさがあるということ
効用は満足の度合いのことだ。人はいろいろな物事で幸せになるがおやつの幸せと宝くじ当選の幸せは同一でないだろう

つまり、合理的である(効用を最大化する=出来る限り幸せになる)ためには
おのおのの欲望の効用の大きさと、そのためのコスト(=面倒、ショックなどの不幸)の大きさを把握していないといけないのである。
この、どの欲望を優先すれば効率的であるかが客観的に存在すると言った
欲望そのものは主観的だけどね
客観的な合理的優先順位に対立するのが主観的な非合理的優先順位で、これは今やりたいとかなんとなく感じているもの

まどろっこしいので具体例を挙げる。たぶんこんなに回りくどく言う必要はなくて、わざわざ変な書き方してた。まあいい。
遊びたいが勉強もするべきだ。そういう状況だ。
遊びの効用と勉強の効用を比べようねと、ただそれだけの話
言いたかったのは、まさにタイトルそのもので、「欲望に流されてもいいけど非合理的になると不幸だよ」ということ

ちなみにタイトルで本当の望みって書いたが「本当」は「より重要」ってだけの意味

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