コミュ障コミュ障って卑屈になってDQNに嫉妬するのはいい加減やめたほうがいい

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存
  • 0
レスポンシブ

この文章のターゲットというか主人公は「自称コミュ障で『コミュ力ある』DQNを嫌っている人」です。
そうじゃない人には当てはまらない内容です。
当てはまらないっていうのは読めないということではなく、「卑屈な人たちは~」っていう言い方をしているが、その部分の意味が上に書いたやつだということ
自称(略)と書くのが面倒だし分かりにくいので…

本題の前に、前提として、
自分の価値観に生きろ。
価値観はどれが正しいも間違ってるもない。証明できないからだ
人に親切にしたい、ハーレムを作りたい、名声と権威を得たい、趣味に命を捧げたい
なんでもいい。死ぬとき納得できるように選べ。

で、卑屈になっている人は、そもそも自分自身に関して何らかの価値判断をしているはずなのでそう仮定して話す。
でなくて事実判断だけなら卑屈になりようがないからだ。
価値判断は色々だが便宜的に個人的なものを価値判断(個人的)、世間で言われているものを価値判断(社会的)と書く。
世間の価値観はこんなのじゃないとの異論はあったら教えて下さい。

広告

コミュ力の定義

まず定義からだが、はっきりしないようなのでいくつか作っておく
①知らない人と仲良くする能力
②仲間内で騒ぐ能力
③わかりやすく伝え正しく把握する能力
個人的にはコミュニケイトの意味的に③が妥当だと思うのだがまあそれはいい

そのコミュ力は持っていて何か意味があるのか

正直、②の仲間内で騒ぐ力を持っていない人なんていないと思う。
友達がいなくても家族とは仲良くやっている人は多いだろう
どっちもいない人は何とも言えないが、心を許せる相手ができたら騒げるはずだ。心を許すってそういうことだろう。
自分の感覚だと仲良しな人と仲良くできるのは当たり前すぎて何の価値(社会的)もないと思うのだが
価値がないというか、それがどうした?と言う
仲良しな人と仲良くするのは個人の効用的には大事なことだとは、思う。が、それができるからといって「有能」かというとそう感じる人(社会)はいないんではないかな

その人は本当にコミュ力があるのか

そもそもコミュ力があると言われている人たちは本当にそうなのか
上述したように、まず②には価値(社会的)はないと考えていいだろうから、①と③について書く。

まず①だが、自称コミュ障が「コミュ力のある」DQNを嫌うのは自分を拒否されているように思っているからじゃないか?
自分を好きな人のことは、好きになる。認知心理学的にも。(返報性の原理)
だったら、自称コミュ障と仲良くしていないんだから「コミュ力のある」DQNは実のところコミュ力がないんではないのか。
というか、DQNの時点で人に迷惑をかけている。迷惑をかける人を社交的とは言わない

次に③だが、まあこの能力をコミュ力だと思っている人はこんな文章読む必要全く無いと思うが一応…
DQNに国語力はあるか?
③の能力はとどのつまり国立大の二次試験の国語の能力だ。読解力と記述力。
悪文を読んで噛み砕き、自分の言葉でかつ他人にもわかるように構成し直す。
お前が嫌っているDQNは本当にそんな力を持っているか?

世間の価値観に迎合していいのか

上でコミュ力が意味あるかとか存在するかとか考えたのとは次元の違いそもそも論として、
「コミュ力」自体を大事にする必要が本当にあるのかという疑いだ。
さっきも言ったが価値観に優劣はない。
価値観がどう形成されるかは知らないが(たぶんパーソナリティのように遺伝と環境半々?)
ある人の価値観が世間のそれとそっくり同じということはあまりないだろう
もちろん、世間体とか世渡りのために表向き迎合するほうが都合がいいことはある。
けど心から納得できないならしなくていい。
自分の人生なんだからダスマンにならずに生きろ。
究極に世間の価値観に合わせるのが俺の生き方だと断言できる人はいいんだけど、
自分をよく見ないで適当に流されてる人はもっとうまくやれよとしかいえない

レクタングル中
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存